『シチリアの裏通り』 A Street in Palermo (Via Castellana Bandiera)

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『シチリアの裏通り』 
A Street in Palermo (Via Castellana Bandiera)]

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シノプシス:

ある日曜の午後。ローザとクララは友人の結婚式に出る為に、砂まじりの熱風が容赦なく吹きつける、シチリア島北西岸の港湾都市、パレルモにやって来るが、途中の街路で迷い、カステッラーナ・バンディエーラ通りの袋小路に迷い込んでしまう。

同じ頃、カラフィオーレ・ファミリーを乗せたサミーラの運転する車も袋小路に入り込み、狭い道でローザの運転する車と向き合ってしまう。前に進めなくなってしまったローザも、老いて頑固なサミーラも道を譲ろうとはしない。

カラフィオーレ・ファミリー達は、隣人達の視線を避けるように、違法なギャンブルを営みながら生活をしている建物の中へと入って行く。ローザとクララが車を止めているのがちょうどその建物の前なのだ。車を出たクララはカカラフィオーレ・ファミリーの末っ子、ニコロの案内で、スクーターに相乗りをして、パレルモの街を探検する。

夜が来て、闇が街路や隣接する家々を覆う頃、二人の女たちは空腹、乾きや眠気に耐えながら、決して理性的とは思えない、頑固さを押し通し、道を決して譲ろうとはしない。

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エンマ・ダンテ監督のシネマのスタイルとストラクチャー&主人公の説明:

シネマの冒頭、闇の中で鼓動を打つ音が聞こえる。生命が誕生した底の知れぬ深い穴から小さな光の尾が現れ、水上に向かって泳ぐ人影が見える。サミーラは全ての原動力、何世紀も海流に逆らってきた岩、その表面に聖刻文字のように刻まれた跡は地図のようにも見える。隠れ家と決めた車の中で、彼女は永久に潜み続ける。

生命の誕生と死のように、シネマは水中で始まり、水の中で終わる。物語は早朝に始まり次の日の夜明けには幕を閉じる。カステッラーナ・バンディエーラは通りの名前であり、永遠の象徴、そして痛みでもある。見方によっては混乱とさえ言えるだろう。全ての悲劇に言える事は、主人公の運命は誕生の時から定められている。

二人の女がパレルモにやって来たのはある蒸し暑い七月の午後。その関係や街に対する二人の意識の仕方の相違については冒頭では明らかにされてはいない。好奇心の強いクララは、愉快で友好的な女性。一方、ローザは不全感を患い、人を遠ざける癖がある。パレルモ出身のローザは、今はローマに住んでいる。友人のクララのたっての願いで、数年ぶりに地元に戻って来た。わがままな性格の為に街を追われたローザはパレルモを嫌っている。しかし、地元に戻るとローザの脳裏に交差する不安や疑問は無意識のうちに幼年時代を過ごしたカステッラーナ・バンディエーラ通りへと彼女を引き寄せられていく。迷っているようにも見えるローザだが、実のところは自分を見つめ直し、最後には人を嫌うという行為を自ら辞める事になる。彼女が入り込んだ一方通行の道を人間の血管に例えると、彼女は血管を詰まらせて流れを止めることで、地区全体に発作を起こさせた。

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私が最も興味を引かれたのは血管が詰まるという先天性の欠陥。私にはこの街路の暗闇の方が明るい太陽の街パレルモよりも遥かに性分にあっている。クララの透き通った眼差しの力強よさは、私たちに太陽の光を与えてくれる。彼女を通して素晴らしい物を見つけることができるのだ。拝堂のある街角、途切れること無く通って行くトロッコの上に乗ったボートはビル街を流れて行くように見える。神話に出てくる番犬の彫刻は崩れ落ちる貴族の宮殿の壁に囚われているかのようだ。秘密の隠語を使う人々の演説、ウィンクや手間ね、頭、目、肩、腹や足など体の一部を使った身振り。唇を一度も開くこと無く多くの事を伝えることができる人々。

ローザにとって切迫感があるのは、自分の人生を伝え直す事では無く、生き直すこと。街路に入る彼女は、かつて母親にしたようにサミーラの前にも立ちはだかる。日光は人工の灯りにゆっくりと飲み込まれ、街路に面したビルの風景もだんだん闇へと流されて行く。通りの中央で向かい合う二台の車以外そこには何も無い。ローザが立ち塞ぐ通りは精神的なブロックとなり。彼女たちが近所で起こす妨げは道徳の問題となる。妨げを取り除くことは簡単だが実際には誰もしない。繋がりを断つ事ができなくなり、集まりを散らす事ができなくなる。一方には、パーティーが行われ、家族が暮らす蛸壺への入口があり、もう一方にあるのはローザが守ろうとする崖っぷちの恋と街路の行き止まりの深い裂け目だけだ。

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世の中には生まれてからずっと囚われの身の人もいれば、恐怖によって囚われの身になっている人や愛によって囚われの身になっている人がいる。囚われてしまうと人は永遠に自由にはなれない。後戻りすることもできない。それは群れの生きるき方に似ている。群れから外れる者は死んでしまう。

私には二つのパレルモを想像することができる。本当のパレルモは海と光と石でできていて、街人の頑固さや傲慢さが領土を閉ざし我が物にしている。パレルモを語る時、隠された卑怯者の歴史からイタリア人は逃れる術がない。もう一つのパレルモはもっと個人的で、足場を使って通りのファサードや壁を建て直し、夢と何でも願いが叶うという記憶を持つ街。この二つのパレルモの違いは気づかないほど些細で、繊細だ。日差しは夕暮れと共にその質を変えて人工的な灯りと自然に交わっていく。ファサードの足場を見ることは決してできないが、街路を広げ、私たちの地平線を広げている。

物語の仕組みの牽引の役割をしているのはサミーラ。無言で、何よりも言葉と痛みを超越している。サミーラはモノリスのようだ。アントナン・アルトーの言葉を借りると、社会によって既に自殺させられている。彼女の視点を通して私はこの物語を語っている。私は彼女の些細な体の動きを見逃すことが無い。私は彼女が纏うドレスの生地を握り締め、手放さず、牢獄を象徴する彼女の車までついて行く。そして死のボルトとカステッラーナ・バンディエーラ通りの空の黒いシャフトを車から取り除く。

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彼女の視線を通して、私は登場人物達の関係や世界観を知る事ができる。私とサミーラを繋ぐ橋、または観客とサミーラを繋ぐ橋はニコロです。ニコロの清さと物事の判断の保留が彼を常に新しい事に接しさせる。2台の車のドアの鍵を開くことができるのも彼だけ。ニコロは物語の革新者。実際に父親のサロ・カラフィオーレの指示に背くことで物語を書き換えることができるのもニコロだけ。彼は言語を全て知り、両者の間に入ることのできる唯一の存在。

私はシネマ作りを人物から始める。何故なら全ての台詞や仕草、そして世界観を一人一人から創造させたいからだ。数回カメラの向きを動かす事で、壁にできたひび割れやそこから空が見えるという光景をとらえる事ができる。被写体のプライバシーを損害するほどでは無いが、近くまで被写体に接近して、ロジックを損害する事で物語のプロットの中によく潜む、偽りを捨て去る事ができます。人生にはプロットはありません。カステッラーナ・バンディエーラ通りは人生のかけら。実際には終わりも無く、使命も無い、開かれたものなのです。

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